なんで、彼女のことを考えてしまうのだろう。
高校一年の初夏。中間テストが終わり平常授業に戻った学校生活。
皆が皆、ひと段落ついたということでだれているように見えた。
周りから見たら、俺も同じだろう。
六時間目の授業中。残りは十分。開いてあるノートには、文字で埋まっている黒板とは対照的になにも記されてはいなかった。
この四十分、ノートをとるでも授業を聞くでもなく、ぼんやり左側の窓と正面の黒板と右側を交互に眺めていた。
右側にいるのは、ここ最近俺の思考を支配する要因となっている女子。小宮山さんだった。誰かに似ているのだが思い出せない。他は特別特徴のないクラスメイトなはずだ。
新しい学校に入ってまだ二ヶ月くらいなのに、クラスのみんなは「仲良し」な人を見つけているようだった。
見つけていない人はいかにして「仲良し」になるかを模索しているような。
そんな会話や、それだけに熱心な高校生という存在に嫌気がさしているけど、他に話題がないのだからしかたがないのかもしれない。
俺が小宮山さんのことを無意識的に見てしまったり、考えてしまったりする。それは、その他大勢の野郎共が「仲良しになりたい」と思う感情と同じなのだろうか。
それだったら、俺が嫌っている人種と俺が同じということになってしまうではないか。
「人種なんてものは、後々勝手に人間が作ったものです。黒人、白人、それらは皆同じ『ヒト科ヒト属ヒト』でありその他の生物の種≠ニは異なり、子孫も残せますね。そう『ヒト』は皆同じなのです。……それでは、今日はこのくらいにしておきましょう」
今まで頭に入ってこなかった教師の言葉が、自分が考えていた言葉と同じ言葉を語り出したためか、入ってきた。
時計を見る。もう残り数十秒で授業は終わる。
「つまり、俊君も女子に興味を持つようになった、ってこと?」
今年で十年目、あまり変化のない下校風景。今日も昔からの付き合いである知美と一緒に帰っている。ちなみに俊とは俺のことだ。
正直、戸惑っていた。
『好き』
この言葉が、今までとても幼く聞こえていた。
小学校、中学校、ませた奴は幼稚園の時も、そしてもちろん今も、聞かずに一日が終わることがないくらいに、皆が皆連呼している。
広く普及、または支持されているものなんかは、安っぽく見えるのが常だ。ファーストフードや民報のテレビ番組とか。
それらと同様の理屈で「聞かないことがないような言葉」は安く、幼い言葉でしかない。
だから、そうだとは認めたくない。
でも、ここまで思考を支配する人が現れるというのは、人生において初だった。これはなんという言葉で言い表せばいいのだろう。知美は『興味』と言った。一つの謎が解けた気もした。
「興味か……なるほど。なんというか、なんとなく気になるんだ」
少し遅い返事をする。
知美は俺の顔から数秒間前方に視線を移し、また俺を見た。
「そっか。最近ではないけどさ、私も、ある人のことが頭から離れないことがあってね。その時は戸惑ったよ」
「で、どうしたんだ? どういう結論になったんだ?」
聞きたいことはそこだった。
「考えるんじゃなくて、その人に接してみようと思ったの。知ってみようって。で、接してみた。そしたら、考えることに後ろめたさとか、自己嫌悪感がなくなってね。考えることは今でもあるけど。でも、落ち着きは取り戻せたかな」
知美の言葉で自覚したことがいくつかあった。
俺が小宮山さんのことを考えるのに戸惑っているのは、そこに後ろめたさと自己嫌悪感があるということ。
それまで、なんで戸惑っているのかもわかっていなかった。
それだけでも十分だ。
知美は、俺の目を改めて見てから続けた。
「だからさ、その……小宮山さんだっけ? に、私と同じ感じで接してみればいいと思うよ。明日あたり声かけて一緒に帰ってみたら? 自覚ないだろうけど、俊君に誘われて断る女の子はいないはず。むしろきっと喜ぶよ。少し寂しいけど、私はもう一緒に帰らなくてもいいしね。私は俊君と違って知り合いもすでに多いし」
そうだな、と軽く頷く。ちらちら見て、考えて、もしそれに相手が感付いているとしたら、堂々としないとほうが不自然だろうし。
「あ……ぁ」
トラックが通る五月蝿い音と同時に、知美は何か言いかけた。
「やっぱいいや」
「言えよ」
こうなった時のお約束的な流れだが、聞かないわけにもいかない。
「うん。あのさぁ、俊君は、私のこと、どう思ってるのかな、どう思ってたのかな。ってちょっと気になって」
頼りになる奴。テスト前に全教科ノートコピーさせてくれる奴であり、時間割忘れた時に聞ける奴でもあり、こういう相談もできる。この学校だって、こいつがいなければ落ちていたかもしれない。
ある程度整理してから答えた。
「頼りにしてるよ。今の俺がいるのは、良くも悪くもお前がいたおかげだって思ってるし。あらゆる意味で『いい奴』だな」
知美は前を向き何かを呟いた。俺はその言葉を聞き取れなかったが、表情から俺の答えが期待はずれだったのだけは勘でわかった。
正直に答えたのだから、何故期待はずれなのかはわからなかった。
「ただいま」
そう言って自分の部屋へ直行する。
意味なく生活感ある机と椅子が二つずつ並んでいる部屋。
一つは俺のものだ。
もう一つの机と椅子は、完全に「自室」となっている今では、その机の存在意義はないに等しい……はずだった。
「おかえり」
そう俺に対して発言した女性は「存在意義がなくなった」はずの椅子に座って何かの本を読んでいた。
俺の脳内にあるデータとその女性を照合する。
…………
「姉さん?」
俺が姉さんと呼んだ女性は、満足そうに笑ってから答えた。
「当たりだよ」
「なんで姉さんが俺の部屋にいるんだよ」
即疑問を口にした。
「ここはあんただけの部屋じゃないでしょ。私の部屋でもあるのよ」
姉さんも、即答した。
一度部屋を出て、母親に事情を聞いて、また戻ってきた。
改めて姉さんを見てみる。
四年ぶりだろうか。随分久しぶりに見た気がする。
二十代の人は茶髪金髪というイメージがあったが、姉さんは黒髪セミロングのままだった。家を出た、その日と変わらぬ。
誰かに似ている気がするが、はっきりとはわからない。
「仕事、上手くいかなくなったのか?」
母親の話だと、仕事を休んで、こっちに休養にきたらしい。
四年前高卒で県外へ就職してから正月にも戻らなかった姉さんが。
「まぁなに。五月病ってやつ? ちょっとあれになってね。少し休んだらまた復帰するよ。辞めたわけじゃないし」
「五月病は新人がなる病気だろ。四年目の奴が言う台詞じゃないんじゃないか」
反射的にそのつっこみがでてしまう。
「私は初心を持ち続ける女だからね。いつでも気分は新人よ」
なんとなく、これ以上は触れてはいけないような気がした。
「そっちは、どうなの? 長い間見てない、話してないだったけど。高校は順調? そっちは完全に対象だしね。五月病」
また、話し出す。用事があるわけではないから、満足するまで付き合うことにした。
四年ぶりとはいえ、姉さん相手なら信頼して話せるし。
姉さんも、家に来たってことは、家族と話したいんだろうし。
「うん、まぁ、順調じゃないわけじゃないよ。最近ぼーっとすることが多くなったけど」
「好きな子でもできた?」
「俺は『好き』って言葉は嫌いだ、って前にも言わなかったっけ。なんとなく、考えちゃう奴はいるけど。そいつのことがそのいわゆる『好き』なわけではないと思う」
「ふーん。その子はどんな子なの?」
「あんまり話したことはないけど、髪黒くて、肩ぐらいの長さで、背は……姉さんくらいかな。わりと普通な感じ。威圧的じゃない目をした奴だし、悪いイメージはないけど」
「ふむふむ。私みたいな子ね。性格は知らないけど」
そこまで言って、姉さんは時計を見た。俺もつられて見る。
時計は五時を指していた。
姉さんは俺を見つめなおしてから提案した。
「せっかくお姉さまが戻ってきたんだから、遊ぼうじゃない。私服に着替えれば夜遅くても大丈夫よ。安心して。酒は飲ませないから」
断る強い理由はなかった。
「あぁ、行くか」
そこまで答えておきながら、ひっかかっていた。姉さんみたいな子……か。
たしかに小宮山さんは姉さんに、姉さんは小宮山さんに似ている。
結局、帰ってきたのは日付が変わるちょっと前だった。
それまで、思いつく限り遊んで、食べて。
姉さんと話したり、遊んだり、食べたりするのには安心感と、楽しさと、嬉しさがあった。
それは、久しく感じてないものなような気もした。
翌日の昼休み。同級生数人と話している。
くだらない低俗な会話をする男子高生とは自ら接しようとも思わないが、拒むほど憎いわけでもなかった。
「そういやさ、渡辺。黒木さんとはどうなんだよ」
渡辺は俺、黒木は知美のことだ。
質問としては、いつもされている。昔から、ずっと。
「どうって……昔からの知り合いだな」
嘘はない。
「それだけか? それだけで毎日一緒に帰ったりするのかね?」
「お前らには昔からの付き合いの奴はいないのか? 寂しいな」
こいつらは、少し黙った。それから、一人が口を開いた。
「というか、お前黒木さんと一緒に帰った、つってたけど昨日街で大人の人と歩いていたよな。その人はどうなんだ?」
「あれは姉だよ。お前らが期待してるようなもんじゃねーよ」
「でもあの人、綺麗だったな。少し小宮山にも似てたかな。まぁでもたしかに、姉が好きってのはありえねぇな。常識的に」
こいつが言う通り、倫理的というか社会的というか、姉に恋をするというのは難しい話だろう。ただ、何か違和感を覚えた。
俺が何も言わないでいると、心底疑問そうに尋ねた。
「黒木が違って大人の人も違うなら、結局お前は誰が好きなんだ?」
くだらない昼休みと集中できない授業を乗り越えた。
下校中。いつもと少し違う風景。隣には小宮山さんがいる。
改めて見てみても、姉さんに似ている気がする。
放課後に話しかけて、一緒に帰ろうと誘った。
断られる可能性も考えてはいたが、案外あっさりいった。
「なにか用件でもあるの? いきなり誘われたから少し驚いたよ」
なんて答えればいいのだろう。一瞬の間に色々考えた。
「特別な用件はないけど、ほら、帰宅部の人って少ないし、一人で帰るよりは何人かで帰った方が楽しいかなー、ってね」
全てが本音というわけではなかった。が、嘘ではない。
「そっか。私の友達もみんな部活入っちゃっててね。クラスで帰宅部渡辺君だけだったから、少し気になってたんだよ。でも、いつもクラス違う人と帰ってるから」
「あれは、まぁ昔からの知り合いだし。今日は、ちょっと、ね」
学校から駅までの道はそれなりに長い。テストの話とか、勉強の話とか、そういった話をしていた。
「渡辺君は、誰か好きな人とかいるの?」
やっぱり、この人もこの言葉を使うんだな。
「それ、よくわからないんだよ。その言葉。どういう意味なのかね」
小宮山さんは、一瞬考えたそぶりをみせた。
「よくわからない、か。じゃあ、人としてどういう人と接したい?」
こういう切り口での質問は珍しかった。
「そうだな。俺のことを知ってて、なんでも話せて、ある程度の常識があって、安心感があって、接することに楽しさと嬉しさ……または喜びがある人、かな」
「多分、それがみんな言ってる『好きなタイプ』の渡辺君バージョンなんだよ。で、それに合致してる人がいるなら、その人のことが渡辺君は好きなんだよ。……って言われたよ。どうなんだろう?」
帰宅して、姉さんに話してみた。
「んー。まぁ、間違ってはいないんじゃない? で、その小宮山さんはそれに一致した?」
「まだわからないよ。でも、そんな気もした。初対面だから俺のことはあまり知らないだろうけど、なんでか安心感があったし、話してて楽しかったな」
それは全部姉さんにもあてはまるけど。というのは言わなかった。
「そっか」
ここで言葉が止まったが、続きがありそうな雰囲気をもっていた。
「あのさ、安っぽくて幼いから嫌いだって言ってたけど。安いものはそれだけみんなが使いやすいものであって、なきゃ暮らしていけないものだよ。俊だって、常にヨーロッパのブランドのバッグ使っているわけじゃないでしょ? 家の食事だって最高級の米使ってるわけじゃない。セールのもの好んで買ってると思うよ、母さんは」
「なるべくそういうのは避けたいもんじゃないのか?」
何が言いたいのかはなんとなくわかった。
「でも生きていくうえで必要なものだよ、安いものは。だから認めちゃってもいいんじゃないの? 自分も安いものを持ってる、って」
黙る。長い間貫いてきた変なプライドは、なかなか捨てられない。
姉さんは雰囲気を変えてから俺に今年二回目の提案をしてきた。
「私、明後日には戻るから。今日も遊ぼうよ」
姉さんと遊ぶ。
それは楽しいし安心感があるし、接することに喜びがある。
はっきりとわかってなかったけど、俺は小宮山さんが気になってたんじゃない。きっと、姉さんが気になってたんだ。ずっと。
そこで、自覚しないまでも似ている人を見つけて、見ずにはいられなくなった。その理由がわからなくて、後ろめたかった
姉さんを目の前にして、色々な衝動がわいてくる。
人種なんてものは、後々勝手に人間が作ったものです。黒人、白人、それらは皆同じ『ヒト科ヒト属ヒト』でありその他の生物の『種』とは異なり――そう『ヒト』は皆同じなのです。
ふと教師の言葉を思い出した。
俺も、知美も、小宮山さんも、クラスの野郎共も、姉も「ヒト」
ならば、世間的な、社会的な、倫理的なタブーなんてものは、いらない。信じない。必要ない。関係ない。
「姉さん」
考えたことを、そのまま口に出したくなっている。
子どもみたいに、はじめて理解した言葉を使いたがっている。
「俺、姉さんの言う通り、認めるよ。安い言葉は、それだけ必要なものなんだろうし、俺が使うのも問題ない。明後日で家から出て行くなんて、もう嫌だよ。せっかく久しぶりに会えたのに」
俺は姉さんの目を見る。姉さんも逸らさない。
「俺は姉さんのことが」
少し息を吸う。初めてだけど、本心でこの言葉を伝えよう。
何でもない街の光が、眩しい。
あとがき
これまた前サイトにあったやつの移植です
読んでいただいた知人の多くが私にある疑惑をかけます
もし読んでいただいたのなら、同じことを疑問に思われるかもしれませんが
まぁ、そこんとこはノーコメントです。
前のあとがきでは中間テストの時期に衝動的に書いたと言っています。
真面目に受けようと思っている試験の時期って、そういうことしたくなりますよねぇ
当時参加していた文芸部で募集していた原稿の枷が「夏or秋」でした
長さもちょうどいいくらいでしたので、もう一つ書いたもの
「正義の味方」と迷った記憶があります
結局こちらは紙にはしませんでしたけど、それで正しかったかな、と今は思っています。
ここからは前と変わらない三行を載せたいと思います
拙い文章。面白くないストーリー。無駄に長め。
これら三重苦に時間をとらせてしまったことを申し訳なく思います。
いつか楽しい時間を与えられることを夢見つつ。
(2006-09-22)(2007-08-12) 文月水無